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かどのの郷

〒669-3613 兵庫県丹波市氷上町上新庄445-4
TEL 0795-82-4224
FAX 0795-82-4124
営業時間 8:30~17:00
定休日 毎週水曜日(水曜日が祝日等の場合は翌日)

高山寺
【高山寺跡と現在の高山寺】
天平宝字5年、法道仙人が弘浪山で千日参籠し十一面観世音菩薩を感得した霊場である。その後、荒廃したが源頼朝の命を受けた東大寺俊乗坊重源上人によって再興された。健久年間には後鳥羽天皇勅願所となる。歴史が経過する中、再び荒廃したが日向の国(宮崎県)より開長上人を向かえ釈迦を復興させる。
堂、仁王門も再建されたが明治初年の廃仏棄釈による仏教排撃運動。その後の戦争、台風災害などで山中での維持管理が困難となり、昭和32年に当時の住職、寛園上人(後の京都・大覚寺59世門跡)が常楽の地に移築工事を開始し、翌年本堂、仁王門、庫裏の移築を完了した。 現在の高山寺は丹波古刹霊場の第7番にされ、本堂外陣には鬢頭盧尊者(びんずるそんじゃ)が安置され、自分の患部と同じ部分をなぜると完治するとして信仰されている。
又、もみじの名所としても名高く、参道両側に並ぶ石灯籠とマッチする紅葉絵巻は多くの参拝者から大変な人気がある。

【天狗塚】
高山寺跡の二本杉の北側にあり、空から現れた大男が重くて動かすことができなかった棟木を本堂へ運んだという。しかしその大男はいつの間にかどこかへ消えてしまった。その後、男が消えた場所に塚を築き天狗塚と名づけたと言われている。

【地獄岩】
高山寺跡参道の近くに炎が上がり人の泣き叫び声が聞こえる岩穴があった。法道仙人が法華経を称え続けると7日目に岩の上から童子が天に昇った。 その夜童子が現れ「悪行のために身を焼か続けていた亡者だったが仙人の力で救われた」と礼を述べた。その後その岩に善人の投げた小石は岩の上にとどまるが悪人の小石はすべり落ちると言われた。
ある男が小石を数十個投げるとすべてが落ちた。腹が立ち強く石を投げると炎となりすべて燃え上がった。自分の罪に驚いた男は仏前に向かって過去の行いを悔やみ、髪を切って出家し、その後に名僧になったという伝説がある。
中野古墳
中野区の長都羅志(ながずらし)の墓地入口辺に横穴式円古墳があり約1300年前のものである。古墳の大きさは入口が4尺4寸、母壙は6尺6寸、長さは37尺と葛野村誌に記してある。
高座石
清住、十九山の中腹に、約4メートルの高座石があり、その昔村人が客膳が足りない時にこの岩に上がって必要数を打てば一種の響きがあり所用の数を得たという。 しかるにある時、村人が返済すべき数を減らしたとたん、以後調達は途絶えたと言い伝えられている。(山林入口より1.7k、車で行けますが林道ですので注意)
石仏群
三原区の善福寺近くの猪垣を入ってすぐの山中に、石仏を集めた市の指定文化(昭和54年)である阿弥陀堂があります。篋(ほうきょう)印塔を中心に五輪塔4基(完存3基)、一石五輪塔7基、小石仏33体が安置されております。すべて室町時代末期から江戸時代のもので、古い石仏品の少ない氷上町には大変貴重な存在であります。
黒見鉱山
篠ヶ峰に行く、サイプレスゴルフクラブの近くに三原字黒見谷があり花岡岩を基礎とし、深造岩、火成岩との接合面あたりに鉱脈が発生したようである。古くは永承年間(1046年)に銀を産出したと言われている。その後明治の初期にはたいへんにぎわいこの辺りを「黒見千軒」といわれ家屋が1,000戸以上あったという。
昭和39年に上田工業所が選鉱場として操業を始められ、途中採石工場に変えて47〜48年ごろまで操業、近隣からも多くの人が従事した。
現在、抗口は閉ざされており残念ながら長年の歳月から近寄れなくなっている。
神變大菩薩(じんべんだいぼさつ)
三方区、秋葉神社に上がる入口にあり、8世常照寺透宗祖関和尚が享和3年に大菩薩の神變加持を仰ぎ、村人の信仰と安泰を願い、ふもとの大岩に安置の場所を定め造立された。
今も、毎月18日に近所の有志がお参りし般若心経をあげお祈りします。そして8月には常照寺の住職もお参りされている。
鵜の穴
三方、山口氏の地に弘法大師が訪れた時、水を頂けないかと尋ねたら村人は水は無いと答える。 弘法大師は水が無いなら無いようにしてやると釈杖で穴を叩いたところ、水はたちまち抜けて無くなったという。村人は不思議がって鵜の鳥をこの穴に入れたところ播州播磨の国へ抜け出たといわれる。その為、鵜の穴と呼ばれ現在もその辺の地所を鵜の穴と呼ばれている。
又、お隣の多可町に山口という所の田作用水が湧き出している場所を丹波の湯と言われているのは偶然だろうか?
東地蔵堂
中区と三方区の境の山手に4間のお堂があり、地蔵座仏その外、大小の古仏が奉られている。
外には道路の悪霊を防いで、行く人を守護する神、道祖神も安置されている。
毎年7月には、お祭があり住職や近隣の有志の方がお参りされお経が唱えられる。
穴地蔵
宝暦年間(1750年頃)目の不自由な老夫婦が四国88ヶ所、第19番立江寺に巡拝したとき、お地蔵様より丹波の国の新庄の里へ行くよう告げられ、道もわからないまま北の方角の山を目指してやって来た。頂上にたどりつくと大きな岩があり、その根元には洞窟があった。そして奥深いところに良く見るとお地蔵さんが見え、成就したことでひたすら願い込めてお祈りをした。ここは立江の分身が納めてあるということを多くの人に教えてあげよと言われた。やがて「ご利益がある」「願いがかなう」ということから多くの参拝者あったという。 そのお地蔵さんは現在、上新庄区の禅勝寺の太師堂にまつられている。
比丘尼岩(びくにいし)
森山の南麓に、上新庄、中野、三原の三部落の境界にあり、もしこの岩に触れる時は内尾神社から鉄の矢が飛んでくるという伝説がある。境界の標識なる岩を移動させないためにいわれたものと思える。
今、この岩は何故か中野区に通じる歩道の脇に据え置かれている。
森安こはる生誕地
上新庄区の堂本家に生誕され明治33年、4歳の時に現多可町の杉原谷の森安家の幼女になり幼いときからいろいろ家の仕事を手伝をし、養母がいなくなってからは益々頑張り養父を助けた。やがてそのことが広く世間に知れわたり大正2年に教育委員会から表彰されたり、実業の日本社発行の「少女画報」にも載せてもらった。そして全国孝女節婦3人の内の1人に選ばれ、4年に県知事からも表彰される。 多可町の市原の千ヶ峰の登山入口の実家近くに孝行畑と名づけられた土地がある。
現在も同地区では親孝行の町として全国に発信されており、毎年5月に孝行まつりのイベントが開催されている。
エリアMAP