高山寺
【高山寺跡と現在の高山寺】
天平宝字5年、法道仙人が弘浪山で千日参籠し十一面観世音菩薩を感得した霊場である。その後、荒廃したが源頼朝の命を受けた東大寺俊乗坊重源上人によって再興された。健久年間には後鳥羽天皇勅願所となる。歴史が経過する中、再び荒廃したが日向の国(宮崎県)より開長上人を向かえ釈迦を復興させる。
堂、仁王門も再建されたが明治初年の廃仏棄釈による仏教排撃運動。その後の戦争、台風災害などで山中での維持管理が困難となり、昭和32年に当時の住職、寛園上人(後の京都・大覚寺59世門跡)が常楽の地に移築工事を開始し、翌年本堂、仁王門、庫裏の移築を完了した。 現在の高山寺は丹波古刹霊場の第7番にされ、本堂外陣には鬢頭盧尊者(びんずるそんじゃ)が安置され、自分の患部と同じ部分をなぜると完治するとして信仰されている。
又、もみじの名所としても名高く、参道両側に並ぶ石灯籠とマッチする紅葉絵巻は多くの参拝者から大変な人気がある。
【天狗塚】
高山寺跡の二本杉の北側にあり、空から現れた大男が重くて動かすことができなかった棟木を本堂へ運んだという。しかしその大男はいつの間にかどこかへ消えてしまった。その後、男が消えた場所に塚を築き天狗塚と名づけたと言われている。
【地獄岩】
高山寺跡参道の近くに炎が上がり人の泣き叫び声が聞こえる岩穴があった。法道仙人が法華経を称え続けると7日目に岩の上から童子が天に昇った。 その夜童子が現れ「悪行のために身を焼か続けていた亡者だったが仙人の力で救われた」と礼を述べた。その後その岩に善人の投げた小石は岩の上にとどまるが悪人の小石はすべり落ちると言われた。
ある男が小石を数十個投げるとすべてが落ちた。腹が立ち強く石を投げると炎となりすべて燃え上がった。自分の罪に驚いた男は仏前に向かって過去の行いを悔やみ、髪を切って出家し、その後に名僧になったという伝説がある。
天平宝字5年、法道仙人が弘浪山で千日参籠し十一面観世音菩薩を感得した霊場である。その後、荒廃したが源頼朝の命を受けた東大寺俊乗坊重源上人によって再興された。健久年間には後鳥羽天皇勅願所となる。歴史が経過する中、再び荒廃したが日向の国(宮崎県)より開長上人を向かえ釈迦を復興させる。
堂、仁王門も再建されたが明治初年の廃仏棄釈による仏教排撃運動。その後の戦争、台風災害などで山中での維持管理が困難となり、昭和32年に当時の住職、寛園上人(後の京都・大覚寺59世門跡)が常楽の地に移築工事を開始し、翌年本堂、仁王門、庫裏の移築を完了した。 現在の高山寺は丹波古刹霊場の第7番にされ、本堂外陣には鬢頭盧尊者(びんずるそんじゃ)が安置され、自分の患部と同じ部分をなぜると完治するとして信仰されている。
又、もみじの名所としても名高く、参道両側に並ぶ石灯籠とマッチする紅葉絵巻は多くの参拝者から大変な人気がある。
【天狗塚】
高山寺跡の二本杉の北側にあり、空から現れた大男が重くて動かすことができなかった棟木を本堂へ運んだという。しかしその大男はいつの間にかどこかへ消えてしまった。その後、男が消えた場所に塚を築き天狗塚と名づけたと言われている。
【地獄岩】
高山寺跡参道の近くに炎が上がり人の泣き叫び声が聞こえる岩穴があった。法道仙人が法華経を称え続けると7日目に岩の上から童子が天に昇った。 その夜童子が現れ「悪行のために身を焼か続けていた亡者だったが仙人の力で救われた」と礼を述べた。その後その岩に善人の投げた小石は岩の上にとどまるが悪人の小石はすべり落ちると言われた。
ある男が小石を数十個投げるとすべてが落ちた。腹が立ち強く石を投げると炎となりすべて燃え上がった。自分の罪に驚いた男は仏前に向かって過去の行いを悔やみ、髪を切って出家し、その後に名僧になったという伝説がある。
住所 丹波市氷上町常楽